信州白樺湖を管理する柏原観光委員会。白樺湖の観光や歴史。白樺湖別荘地での高原リゾートライフなど、旬の情報を地元から発信していきます。

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白樺湖の歴史
昭和21年、農業用水池として白樺湖が造られる経緯や
その後高原リゾート地として発展していく様子をお伝えします。

第7回 縄文の先進地 長野県指定史跡 池之平御座岩遺跡   

御座岩遺跡は、白樺湖北岸のほぼ中央から緩傾斜で湖心に突出した安山岩の岩塊群である。

この地は標高1400メートルの高地であり、ここから東方の雨境峠を越えて佐久ヘのコースは

古東山道の役の行者越えとよばれ、北方へは100メートルほどで大門峠(標高1441メートル)

へ通ずるなど、古くからの交通の要衝であった。白樺湖は昭和21年に造成された人造湖であるが、

28年に滅水した時、御座岩の南側に岩穴が現れ、先土器時代の石器、縄文早期から晩期に

かけての石器、土師器、須恵器、幣玉、宋銭、鉄器などの古代から歴史時代に至る遺物も

発見された。なかでも、滑石製模造品としての幣玉の出土は、この岩を磐座として峠神に旅の

安全を祈願したものと云われている。

【「御座岩遺跡案内板 長野県教育委員会 茅野市教育委員会 柏原区 作成」より】

第6回 白樺湖別荘のさきがけ 役の行者越え   

伝承では、西暦700年頃(大宝年間)、役の行者(役の小角・

修験道開祖)が、日本国中のお寺や山を巡り歩いて修行した

際、諏訪の蓼科山登山のため、柏原地区より北の方に諏訪湖の

水源である音無川があり、殊に平坦の土地だったので、暫く此の

地に止まり、一宇の草庵を建て往来庵と名付けた。

幸いに巨岩が二段あったので、此の岩の上で芝を焼き、護摩を

焚いて蓼科山を拝み、修行した後、登山したとのことである。

下山の後、行者は又、諸国巡錫に旅立たれたので、此の場所を

役の行者越え、又は役堂場と云う。

それが、今の御座岩遺跡付近なのです。

【「御座岩遺跡案内板 茅野市 柏原区 (旧)白樺湖区 

(旧)白樺湖観光委員会作成」 より】

第5回 戦国武将が休息した場所 御座岩遺跡   

白樺湖の西側 ボート乗り場横に御座岩遺跡はあります。

戦国時代、甲斐の武田信玄は佐久・小県・北信濃の制覇に際して、

いわゆる信玄の「中の棒道」を通り、柏原地区から御座岩へ。

ここで一休みして軍団を整え、一気に大門街道を越えて行った。

また、ここから古東山道を役の行者越えに北佐久郡へ、あるいは

南佐久郡之「佐久の棒道」から大河原峠越えの軍団が諏訪側から

の軍団と勢揃いするなど、信玄がここに陣を張り、御座岩に腰を

据えて諸方面からの軍団の終結をはかり、軍議をこらした要所

として知られている。

【「御座岩遺跡案内板  茅野市 柏原区 (旧)白樺湖区 

(旧)白樺湖観光委員会 作成より】

 

 

 

第4回 白樺湖築造以前   

現在白樺湖がある一体は以前「池の平」と呼ばれていた。池の平は大門街道に

沿った草原で、その中心を音無の清流が静かに流れ。川端には群葦生い茂り、

その中に「よしきり」の鳥の声がきかれる静かな環境で、年々地元の運動会場として、

楽しく一日を過ごしたところである。

また、大門街道は山梨県より北信地方(信州北部)への物資の輸送の街道であったが、

時勢の変遷に従って年毎に往来も途絶えがちになって、僅かに山通いの街道として

存続し、峠の手前に丸萬小屋があって、親切を尽くしていた。

(中略)

その後、白樺湖は貯水池として竣工。竣工と同時に、時の県知事より「蓼科大池」と

命名せられたが、後日「白樺湖」と名称を改めて今日に至っている。

【白樺湖編集委員会編「白樺湖のあゆみ」より抜粋】

第3回 <伝説>武田信玄と音無川   

戦国時代のすぐれた武将で知られる、甲斐の武田信玄が、上杉謙信との北信濃の

川中島での決戦のため、何万と軍勢をひきつれて、諏訪へ入り、八ヶ岳のふもとの

棒道を大門峠下まできた。

武田信玄は、おもな家来を集めて作戦会議をした。ところが作戦はなかなかまとまら

なかった。そこは、そばを流れる音無川の瀬音がうるさかった。そこで信玄は川に向かって

「うるさい、しずまれ」とどなった。それからこの川を音無川というようになったと言われている。

今でも音無川には、いくつもの滝が落ち美しい景観を残しています。

【信玄公ゆかりの地 案内版より】